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[INTERVIEW] Future Islands


魂を焦がす、熱き咆哮——Samuel T. Herring率いるシンセ・パンク・バンドFuture Islandsは、2014年に米CBSの人気深夜番組『レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』で披露した衝撃のダンスとパフォーマンスで一夜にして全米に知られることになったが、そこに至るまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。

そんな彼らが、BlondieのDeborah Harryも参加した最新作『The Far Field』を携えて、待望の初来日を果たす。常に全力で走り続けてきたFuture Islandsのツアー・ファイナルとなる東京公演を前に、メンバー全員がバンドのこれまでを振り返ってくれた。


学校の野球部に入れなかったんだ。
俺たちは体育館の階段の前に座って途方に暮れて
全てに対して怒りを感じていた(笑)


——はじめまして。日本のメディアでインタビューすることも珍しいと思うので、まずはいくつか基本的な質問をさせてください。ヴォーカルのSamとキーボードのGerritはノース・カロライナの中学時代からの知り合いだそうですが、お互いをどんな風に見ていましたか?

Sam:実は、Gerritは11歳か12歳の頃、俺が生まれ育った町に引っ越してきたんだ。彼は転校生で、最初は彼のことを廊下で少し声を交わす程度しか知らなかった。Gerritはスケーターで、俺はスケボーをやっていなかったけどスケーターやサーファーの友達が多かったから、共通の友達がいた。仲良くなったのは中学を卒業して高校に入ってから。2人とも学校の野球部に入れなかったんだ。俺たちは体育館の階段の前に座って、途方に暮れて、全てに対して怒りを感じていた(笑)。その時に友達になった。物事が全てうまく行くとは限らない、ということを子供ながらに初めて気付いた時だったね。その頃からスポーツから離れて音楽やアートなどに傾倒していった。俺は背が低くて太っていて、Gerritは背が高くて痩せていた。だからいつも彼のことを羨ましく思ったよ(笑)。

——Gerritは、Samのことをどう思っていましたか?

Gerrit: 面白いやつで、クラスのお調子者だと思ってたよ(笑)。

——ヒップホップ少年だったというSamと、バンドマンだったGerritの接点は何だったのでしょう?

S: 俺とGerritは、Dr. OctagonとかBlack Sabbath / Ozzy Osbourne、Glenn Danzig(元Misfits)などが接点だった。俺はGlenn Danzigが好きで、GerritはMisfitsが好きだったけど、俺はMisfitsを知らなくてGerritはGlenn Danzigをよく知らなかった。それがきっかけで遊ぶようになった。Williamと会ったのは大学が始まってすぐの頃。Williamは俺とGerritが知らなかった音楽をたくさん知っていて、俺たちに新しい世界を教えてくれた。18歳の頃にそういう音楽やアートの情報を交換していた。

——その後SamとGerritは、大学の美術史の授業で一緒だったギターのWilliamと一緒にArt Lord & The Self-Portraitsというバンドを結成したそうですが、これはどんなバンドだったのでしょう?

S:このバンドの最も大きな影響はおそらくWilliamが教えてくれたKraftwerkだった。バンドを結成したのはWilliamと出会って半年後くらいだった。お互い知り合いになってからすぐに、アート・プロジェクトやアート・パフォーマンスのアイデアを交換しあったり、ライブアクションのアートをやりたいと話していた。その媒体として音楽を使うことにした。Art Lord & The Self-Portraitsはコスチュームを着てキャラクターを演じるというもので、俺はドイツ人のアート伯爵だった(笑)。それで「有名人は辛いよ」と歌うバンドだった。世間の、芸能人やロックスターの扱い方に対する社会的な主張だった。芸能人やロック・スターというのは、素晴らしい人間ばかりではないかもしれないけど、俺たちは彼らの全てを知りたいと思う。バンドの主な基盤はKraftwerkだったから、東ヨーロッパの非常に真面目なトーンで、キーボードと電子ドラム、ベースギターだけを使った。ある意味、Future Islandsの原型と言えるね。当時から、Future Islandsが使用してきた楽器のパレットを使用して、そこからFuture Islandsとして進化していった。Kraftwerk、New Order、Joy DivisionはArt Lord & The Self-Portraitsに大きな影響を与えた。それからDEVOの奇妙なコンセプトとか。最初俺たちはハイ・アートをバカにして楽しんでいたという感じだね。


Art Lord & The Self-Portraits時代の貴重な映像


——そのバンドでSamは“Locke Ernst-Frost”と名乗っていたそうですが、これは詩人のJohn LockeとRobert Frost、それからシュルレアリストのMax Ernstに由来しているそうですね。彼らはSamが好きな芸術家なのでしょうか? それとも単に美術史の授業で習って知っていただけ?

S:名前はもともと「Oarlock Frost」だった。俺とGerritの地元の友達にRyanという奴がいて、彼と俺は大学のルームメイトだった。Ryanは、Art Lord & The Self-Portraitsという名前を思いついた時にその場にいた。Ryanの父親は、Ryanを本当はOarlockという名にしたかったそうだ。ボートを漕ぐとき、オールを固定する箇所をOarlockと言うんだ。Ryanの父親は船長だったからOarlockという名前は恰好良いと思ったらしい。Ryanは「俺の名前がOarlockじゃなくて本当に良かったよ。代わりに母親の大好きな昼メロのキャラクターの名前になったけどな」と言っていた。その経緯で、元の名前はOarlock Ernst-Frostだった。確かに、Robert FrostとMax Ernstには影響を受けていたが、John LockeはOarlockが短くなってLockeになっただけだから嘘なんだ(笑)。「そう! John LockeのLockeでいいじゃないか」って後付けした。

——ハンドマイクで客を煽りながら歌うというSamのHenry Rollinsスタイルのヴォーカルは昨今ではあまり見られなかったものですが、Art Lord & The Self-Portraits時代の名残なのでしょうか? このスタイルはどうやって確立されたのでしょう?

S:Art Lord & The Self-Portraitsでは毎回マイクスタンドを使って、別の動きをしていた。スタンドを蹴り上げて手でキャッチしたり。だがFuture Islandsを始めたら、マイクスタンドを使うのが合わないと感じた。いつもスタンドを探したり、スタンドを壊してしまったりしていた。そこでスタンドを使うのをやめた。すると新しい世界が開けた。スタンドがあるとそれを盾にして隠れることができた。Art Lord & The Self-Portraitsではスタンドを小道具として使っていたけど、Art Lord & The Self-Portraitsをやめてコスチュームを脱いでからは、マスクや隠れるものがない状態だったから最初は怖かった。自分本人としてステージに立たないといけない。それは最初不安だった。だがその状態にもすぐに慣れて、さらに大げさにやろうと思った。マイクケーブルを使ってみたりした。Art Lord & The Self-Portraitsの時はドラマーがいなかったけど、Future Islandsを始めた時はドラマーがいた。ファースト・アルバムを聴いてもらえれば分かると思うけど、サウンドがシンセ・パンクで、勢いがあって早いテンポだった。それが新しい表現の仕方につながったと思う。でも俺は色々なところから影響を受けている。エルヴィス、ジェームス・ブラウン、モリッシーなどのフロントマンにはみんな独自のスタイルがあり、俺はそれに意識的にも無意識的にも影響を受けて、それが俺のパフォーマンスの仕方につながっている。ソウルシンガーのLee Fieldsには、一緒にライブをして以来、ものすごい影響を受けた。ここ5、6年の話だ。他のアーティストのスタイルを取り入れるのは良いことだと思う。素直な気持ちで作詞、作曲をして、パフォーマンスをしていたら、それは自分の創造物になるわけだから、自分のスタイルを確立しているということになる。新しいスタイル、というか俺たち独自のスタイルを作るということが大切だと思う。



——Art Lord & The Self-Portraitsのメンバーのうち、女性メンバーのKymia Nawabiは最新作を含むFuture Islandsのほとんどのアートワークを手掛けていますが、もうひとりのAdam Beebyはどんな人だったのでしょう?

William:Adam Beebyは俺たちの大学がある町グリーンヴィルのレコードショップの店員だった。大学の後、俺とSamはレコードショップに行って遊んでいた。Beebyは俺たちが聴いたことのない音楽を聴かせてくれたり、みんなで音楽の話をしたりしていた。BeebyはRuin Your Stereoというバンドをやっていて、ベルギーでツアーをして成功したと言っていた。そこで俺たちがバンドを始めるときに、Beebyも参加しないかと誘った。一番最初に声をかけたのがBeebyだった。彼は俺たちよりも9歳くらい年上だった。俺たちが18、19歳の時、彼は27歳とかだった。彼も芸大生だったけど中退していた。彼とKymiaは知り合いで彼女は4年生だった。彼女にバンドのことを話したら、彼女もバンドに入りたいと言ったのでKymiaも入ることになった。後になって分かったことは、Beebyは楽器を何も弾けなくて、ベルギーのツアーにも行ったことがなかったってことなんだ(笑)。Beebyには騙されたよ(笑)。でも、別に良かった。 クラフトワークの影響を受けていたからヘヴィなキーボード音が欲しかった。誰もキーボードの弾き方を知らなかった。Gerritはギターを持って練習に来たのに、キーボードを渡されて弾くことになった。みんな独学で楽器の弾き方を学んだ。俺も初期の頃のライブはキーボードを担当していたけど、練習していた家の人からベースをもらったからベースに転向した。俺とGerritはギターの弾き方は知っていたけど、Gerritは自分でキーボードの弾き方を学び、俺はベースを学んだ。俺とGerritでBeebyが弾けるような音を見つけてBeebyに教えていた。それが結果として、Art Lord & The Self-Portraitsのサウンドの重要な要素になった。彼が弾くのはシンプルな音を2つか3つ。でもそれがメロディックに全てをつなぎとめる要素だった。

S:ホチキスが紙束をまとめていたようにね。The Cureの「Close to Me」のタン、タン、タンタン♪みたいな。Beebyはメディアオタクだった。音楽や書籍、コミック本などにものすごく詳しかった。映画も。全てのメディアを貪欲に消費していた。彼が俺たちにもたらしてくれたのはその知識だった。彼も芸大生だったから、一緒にバンドのポスターやフライヤーを作った。

W:そうだね、みんなでキンコーズに行って、そこに2時間以上いたりしたね。

S:ポスターのアートワークを作って、印刷して、出来上がったものを町中に貼り付ける。Beebyはバンドの初期に影響を与えてくれた人で、俺たちがアーティストとしてどんなことをやりたいかという自己発見の過程に携わってくれた。

W:俺たちが曲を書き始めた2003年に、Beebyはバレンタイン・デーのパーティーを彼の家で企画した。Beebyの家はグリーンヴィルでも有名なパーティー・ハウスだった。しかもBeebyはその町に長いこといたから、知り合いも多かった。俺たちの初ライブは、超満員のケグ・パーティーのリビングルームで行われた。俺もSamもGerritも1年生で、グリーンヴィルに来たのは6ヶ月前。そのおかげでグリーンヴィルのシーンをすぐに知ることができた。

——Art Lord & The Self-Portraitsの解散後、KymiaとAdam以外の3人はFuture Islandsを結成してボルチモアに引っ越していますが、やはりボルチモアで活動していたDan Deaconと知り合ったのがきっかけだったのでしょうか?

W:確かに俺たちがボルチモアに移動したのはDanの影響もある。でもFuture Islandsはボルチモアに移動する前も2年くらいノースカロライナで活動していた。電子ドラムをやっていた友人のErick Murilloが作曲を続けるように勧めてくれた。彼はArt Lord & The Self-Portraitsの大ファンで、「君たちが作る曲は良い。俺がドラムをやるから音楽を続けなよ」と言ってくれた。彼はArt Lord & The Self-Portraitsのライブに参加してくれたこともあると思う。だから俺たちは音楽を続けて、グリーンヴィルでレコーディングしてEPも出した。だが当時、俺は大学を卒業して地元のライリーに戻っていた。Samはアッシュヴィルへ移り、Gerritはグリーンヴィルに残っていた。3人ともノースカロライナにはいたけどバラバラだった。ボルチモアに引っ越そうと話していたのはその時だった。Danは俺たちを後押ししてくれて、ボルチモアに来ればレコード会社と契約できるし、ニューヨーク・シティ、フィラデルフィア、ワシントン DCでいつでもライブができると言っていた。だからボルチモアに行くことにしたけど、すぐにとはいかなくて、3人が再び同じ町に集まるのに6ヶ月くらいかかった。3年振りのことだった。それまではツアーの前に集まって作曲をしていただけで、それ以外の時間は各自の生活に戻り、バイトをしていた。ピザの配達をしたり、画材屋で働いたり、モーテルで働いたり(笑)。ボルチモアに移ってからは一緒にいる時間を活用してたくさん作曲をした。その前の3年間でErickはバンドを離れ、他のドラマーを何人か起用したんだけど、結局Gerritがドラムのプログラミングを本格的に初めて、3人編成のバンドでやっていこうということになった。



——Dan Deaconはあなたたちの「Happiness Of Being Twice」のビデオにも出演していますし、あなたたちもDan Deaconらが在籍するというパフォーマンス集団の一員に数えられることが多いですが、は実際にはどんな活動をしていたのでしょう?

S:Wham Cityは当時、色々やっていたけれど最近まだ活発なのかは分からない。当時は、演劇をやっていて、脚本を書いて、セットを作って、衣装を作ったりしていた。アート関係の活動全般を手がけていたと同時に、人々の生活スペースにもなっていた。ボルチモアのコピーキャットビルというウェアハウスの1フロアを全て使ってアーティストたちのアトリエや生活スペースがあった。フロアはものすごく広くて、カーテンなどで仕切られていた。その場所で入場料を取って、ライブなんかもやった。ステージはなくてフロアでやる感じだけどね。インスピレーションを受ける人、与える人、様々な人たちの集まりがWham Cityだった。ヴィジュアル・アーティスト、映像作家、役者、作家、ミュージシャンなど。みんなバンドに入っていて音楽をやっていたね。楽しさ第一でやっていた感じで、ボルチモアに引っ越してきて、その一員になりたい人はWham Cityに入って楽しんでいた。変幻自在なアメーバみたいに全ての人を取り込んで行った。それが素晴らしかったね。奇妙なことをしたり、普通じゃないことをしたり。でも楽しんでやるというのが大前提だった。だが数年後、コアのメンバーだった人たちは他の町や国に移ったりした。成功して、アート活動を続けている人もいる。Adult Swimと一緒に制作をやっている人もいる。Danも自分の活動を続けている。



——Beach HouseやDan Deaconが2000年代中頃に〈Carpark〉とサインしたのをきっかけに、Future IslandsやDouble Daggerといったボルチモアのバンドが次々と〈Thrill Jockey〉とサインして、ボルチモアが注目された時期がありましたが、当時を振り返ってどのように思いますか?

S:俺たちにとっては非常に重要な時期だった。<Thrill Jockey>があの時俺たちを拾ってくれなかったら、このバンドもどうなっていたか分からない。俺たちは必死だった。ツアーを2年間ぶっ通しでやって、なんとかして結果を出したかった。アルバムを送ったレコード会社にはことごとく拒絶された。コネもあまりなかったからね。ファースト・アルバムをイギリスのレーベルから出したけど、アメリカでリリースされることはなかった。<Thrill Jockey>がセカンド・アルバムを出してくれて、俺たちが今まで経験したことのなかった規模の観客の前でライブができるようになった。Dan Deaconと一緒にライブをやった時初めて<Thrill Jockey>の人たちに会った。Danと何回かツアーをした時も俺たちに前座を任せてくれて、大勢の観客の前でライブをすることができた。今、振り返ってもあの時期はバンドを決定付ける時期だった。俺たちはまだ若くて夢を追っているキッズだった。生活に快適さはまだ求めていなかった(笑)。汚い床の上やベタベタしたカーペットの上で寝る生活。カフェでもバーでも、ライブをしてくれと言われたらどこでもやって、それが楽しかった。夢を追いかけていたから。当時を振り返ると、その時期を恋しく思うけど、もう一度やるというのは想像できないな(笑)。


Beach HouseのVictoria Legrandが参加した「Little Dreamer」のリミックス


——2013年頃、Samがバンドを離れて、Hemlock Ernst名義でのラッパーとしての活動に専念していた時期があるそうですが、実際にSamとヒップホップのアーティストとのコラボレート曲が発表され始めたのは、Future Islandsの4AD移籍第1弾アルバム『Singles』がリリースされた翌年の2015年以降でした。この辺の時系列はどのようになっているのでしょう?

S:俺はバンドを離れたことはないよ(笑)。2013年はツアーを終えて、次のアルバム制作を始めようとしていた時だ。2008年の夏から2012年の12月くらいまでずっとツアーをしていたんだ。5年間ずっとツアーを続けて、年に平均150回のライブをやった。その期間に頑張って活動したからオーディエンスも増えていった。2008年、俺たちのライブには10〜15人のお客さんがいた。2012年の終わりには一晩で500〜600人の人が集まるようになった。そこまで多くないけど、俺たちにとっては上出来だった。2011年と2012年はツアーで生計が立てられるようになっていた。親と同じくらいの金額を稼げるようになっていた。変なバンドをやってツアーしているというだけでね!すごくいい気分で誇りに思ったよ。努力が実を結んだ。だが同時に疲弊していた。みんな、自分の時間を必要としていた。その余裕が初めてできた。そこで1ヶ月半休みを取って、また作曲を始めた。それが『Singles』の原型となった。初めてツアー中以外の時間に作曲をした。俺たちのセカンドとサード・アルバムはツアー中に作曲されたものだ。2ヶ月のツアー中に曲を1、2曲作って、それをライブで演奏してオーディエンスの反応を見る。7、8曲出来上がったらそれをスタジオに持ち込んでレコーディングする。『Singles』と『The Far Field』はツアー中以外の時間に作曲・レコーディングしたアルバムだ。俺は子供の頃からヒップホップをやっていたけど、当時は久しぶりにツアーが終了したから、自分の活動に戻ったというだけさ。5年間ずっとツアーをしていたから、ヒップホップの部分がおろそかになっていた。ツアー中に俺が尊敬するヒップホップのアーティストたちに会うこともできて、そこからコラボレーションが実現したりしたことはすごくクールだった。


Future Islands - Singles (4AD)


——ということはもしかして、TV番組『レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』への出演と『Singles』のブレイクがなかったら、Samはバンドを辞めてラッパーになっていたかもしれないのでしょうか? 番組の反響や環境の変化についてはどう感じましたか?

S:俺はバンドを離れたことはなかったからね。ヒップホップは俺の一部でそれを辞めようとは思わないけど、俺はFuture Islandsだからね。ヒップホップだけに絞るということはしないよ。だけど他のアーティストとコラボレーションすることは良いことだと思う。Gerritはソロのプロジェクトをやっているし、俺とWilliamは他のバンドを一緒にやっているし、Williamは別のバンドにも参加している。俺たちは音楽が大好きだから、色々な方法で表現していくのが好きなんだと思う。Future Islandsは俺たちに取って重要だけど、Future Islandsは俺たちの夢からキャリアになった。もう俺たちだけじゃなくて、俺たちをサポートしてくれる人たちにとってもFuture Islandsは重要だ。

——では、TV番組『レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』の反響や環境の変化についてはどう感じましたか?

W:「レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン」の映像がネットに上がって、その影響力に気づくまで少し時間がかかった。番組収録の翌日俺たちはノースカロライナでライブをやり、その後SXSWに向かう途中だった。その途中、みんなに「デイヴィッド・レターマン」の番組でやったライブについて言われたよ。SXSWに到着した時は、俺たちのライブ映像が「デイヴィッド・レターマン」のゲスト出演映像の中でも再生回数が高い映像の1つになっていた。その影響でオーディエンスが増えたし、若い世代と高齢の世代のファンが増えた実感もあった。キッズから親の世代の人たちまでライブに来てくれて、歌詞も覚えていてくれて、一緒に曲を歌っていた。最初は俺たちを断ったフェスも、引き返してきて、ブッキングの依頼が来たりした。番組のおかげで新しい扉がたくさん開けた。新しいファンも獲得できた。俺たちはその時既にたくさんの音楽をリリースしていたから、新しくファンになった人が俺たちの今までの音楽を聴いて気に入ってくれたらいいと思う。「デイヴィッド・レターマン」はそういうきっかけを与えてくれた。



Grand Pubaの楽しいスタイルも好きだった
俺もぽっちゃりしていたから共感できた(笑)


——SamはMadlibやEarl Sweatshirt、Open Mike Eagle、BusdriverなどLA周辺のラッパーとコラボしていることが多い気がするのですが、ラッパーとしてはどんな人たちに影響を受けましたか?

S:最初はKRS Oneに大きな影響を受けたね。初めてフリースタイルしたのが彼の音楽に合わせてだった。彼のスタイル、すべてにおいて尊敬している。俺の師匠だ。どうやってMCをやるのかとか、どうやってリアルになるのか、など。きらびやかな部分を取り上げるのではなく、苦労した物語などを題材にする。それからRakimにも影響を受けた。あとはDe La Soulも大好きだった。それからGrand Pubaの楽しいスタイルも好きだった。彼は太っていたしね。俺もぽっちゃりしていたから共感できた(笑)。他にもたくさんいるよ。Ghostface Killahはトップ5に常に入る。それから西海岸のシーンも大好き。Freestyle Fellowshipには多大な影響を受けた。でも俺が一番よくフリースタイルしていたアルバムはDJ KRUSHの『覚醒』だよ!彼のアルバム『覚醒』と『迷走』は俺たちの間で衝撃的だった。 dj hondaとThe Beatnutsの曲も好きだったし。高校の時はヒップホップ・ヘッズだったから、世界中のヒップホップ・アーティストのことを知っていたんだ。もちろん一番共感できたのは母国語のラップだけどね。あとは90年代の西海岸とかシアトルのアンダーグラウンド・シーンには大きな影響を受けた。


SamとMadlibのプロジェクト“Trouble Knows Me”


—— 2015年に、テキサスのオースティンにあるSpoonのJim Enoのスタジオで録音した「The Chase / Haunted By You」というシングルをリリースしていますが、どうしてJimと録音することになったのでしょう? オースティンのフェスティバル、SXSWに出演したついでとか?

W:俺たちのマネージャーのBen(Dickey)がSpoonのマネージャーをやっていて、彼とJimは長年の友達だった。7インチをレコーディングすることになって、納期が迫っていた。そこでベンが調整してくれて、俺たちがSXSWにいる間にJim Enoのスタジオで録音できることになった。最初Jimと電話で話した時もすごくクールな人で、会うのが楽しみだった。実際会ってみると本当に素晴らしい人だった。初めてライブのドラマー、Mike Lowryと一緒にレコーディングをしたから良い経験だった。



——そのMike Lowryは新作『The Far Field』にも参加していますが、あのシングルのレコーディングが、新作のヒントにもなったのでしょうか?

S:Mikeは確かにライブのドラマーとしてバンドに新しい要素を持って来てくれたが、アルバム制作はやはり3人がメインだった。作曲を3人でしてから、Mikeに参加してもらった。今後はMikeにも作曲プロセスに加わってもらいたいと思っている。新しい要素を持ち込むのは良いことだと思う。そうすることによって作曲プロセスや曲に新たな一面が加わるから。俺たちはもう15年も一緒に作曲をしているからね。別に新しい要素を必要としているわけじゃないけど、時々新しい刺激を制作プロセスに投入するのは良いことだと思う。


Future Islands - The Far Field (4AD)


——最新作『The Far Field』はJohn Congletonがプロデュースを手掛けていますが、前作を手掛けたChris Coadyもボルチモア出身だということを考えると、初めて外部のプロデューサーと組んだ作品と言えると思います。どうして彼と組むことにしたのでしょう? また、実際に作業してみていかがでしたか?

W:『The Far Field』のデモを何人かのプロデューサーに送って、フィードバックをもらった。フィードバックをもらった3人か4人のうち、Johnは俺たちの背景と方向性を理解しているように思えた。そしてメンバー3人でJohnと電話会議で話した。Johnの仕事に対する姿勢はとても新鮮で、毎日のスケジュールが朝10時から夜6〜7時まで作業をするというものだった。その後は仕事を止めて各自帰宅して休む。俺たちが今まで作ってきたアルバムの場合は全て、朝一で作業を始めて、ずっとレコーディングして、眠さで起きていられなくなるまでそれを続けた。深夜から早朝までやっている時もあった。そういうやり方で何週間もアルバムを作っていると、最後の方はみんなひどいコンディションになっている。睡眠不足だし疲労もあるからあまり良い結果が出せない。Johnのアプローチは時間に厳しく、作業をテキパキやるということだった。1日の終わりに家に帰って、アルバムのことを考えずに休めるというのは素敵なことだったよ。Johnは仕事のペースも速くて、俺たちも早い決断を迫られた。それも良かったと思う。彼はみんなの意見を理解して取り入れるのがうまかった。Johnはテキサス出身で、マネージャーのBenと長年の友達だった。そういう繋がりもあった。

S:俺たちの友達でJohnと一緒に仕事をしたことのある人たちがたくさんいた、というのもある。俺たちはアルバム・レコーディングの一番良い方法を常に模索している。まだ見つけていないけれど(笑)。Chrisと一緒に作業した時は、俺たちの音をハイファイにしてくれたけど、人間味に欠けていた感じがした。Johnは録音された音に温かみを加えてくれたと思う。Johnがそれをやってくれるかどうかというのはやるまで分からなかったけど、バンドとしては音楽に生命のエネルギーというか、温かみを加えたいとは思っていた。『Singles』は整い過ぎていた。もちろん『Singles』には、『The Far Field』にはない強みもある。Johnは感性を重要視したから、今回のアルバムには感性が強く出ていると思う。それにロック・バンドのサウンドをプッシュしていたから、そこに温かみが加わったんだと思う。その両方が出せるプロデューサーがいれば一番良いと思って今でも探しているんだ(笑)。

——新作にBlondieのDeborah Harryが参加しているのは、同時期にJohn Congletonが彼らの新作をプロデュースしていたからだと思うのですが、彼女とは実際に会ってレコーディングしたのでしょうか? もしくは、レコーディング後に会って話したりしましたか?

W:いや彼女とは会えなかった。俺たちがロサンゼルスにいる時に、彼女はニューヨークにいたから、そこで彼女のパートをレコーディングしてもらった。Samは彼女とメールで何度か連絡を取り、曲の背景などを説明した。あの曲は『Singles』に収録するはずだったけれど収録されなかったから、『The Far Field』で復活させた。Blondieと一緒に仕事をしてクールだったという話をジョンから聞いていて、Samがボーカルをレコーディングしている時に、「Debbieにボーカルを歌ってもらうのはどうか?」とJohnが提案してくれた。俺たちは、「彼女がやってくれるんだったら大歓迎だ!」と答えた。JohnがDebbieにデモを送ると1時間以内に返事が来て、「曲はすごく好きだけど考えさせて」ということだった。その何日か後に「曲も好きだし、バンドも好きだから一緒にやりましょう」という返事が来た。俺たちもDebbieもツアー中だったから曲を練習する機会がなくて、「Shadows」はまだ彼女と一緒にライブではやったことがない。それが実現したらクールだろうな。

——新作の中でも一際ポップな「North Star」は、Depeche Modeの「Just Can't Get Enough」を連想してしまったのですが、何かアルバムのインスピレーションになった作品はありましたか?

S:Captain Beefheartの曲で「My Head is My Only House Unless It Rains」というのがあるんだが、この曲が「North Star」に大きな影響を与えている。2014年くらいまで知らなかった曲だけど、今では大好きな曲の1つになっている。



——『The Far Field』というアルバム・タイトルは、セオドア・レトキの同名の詩集に由来しているそうですね。日本では邦訳もあまり出版されていないのですが、どんなところに感銘を受けましたか?

S: 俺が言葉に目覚めたのはセオドア・レトキの影響なんだ。13歳、14歳の頃、ヒップホップにはまり、ラップを書き始めた時にセオドア・レトキを初めて読んだ。そして詩が大好きになり、言葉全般が大好きになった。学校の図書館で彼の詩集を借りて読んだ。彼の詩になぜか非常に感動した。今でも感動させられる。すごく美しい詩があって、ずっと韻を踏んできてるのに、最後だけ見事に韻を踏んでいない、など。読み手としても「え? でも、なんで? ずっと韻を踏んできたのに」と固まってしまう(笑)。でも大事なのはそこじゃないんだ。パターンから抜け出す、というのがポイントだったりする。それに、レトキの詩が本当に素晴らしいのは、自然に近い詩を書くからなんだ。彼は実家が花屋だったから、温室で育つ内容の詩とか、植物や地球に対する愛情を表現した詩などがある。とてもロマンチックな詩なんだ。俺がFuture Islandsで書いてきた言葉はレトキと密接な関係がある。ロマンチシズムと自然が密接に関連していて、多くの場合テクノロジーの概念が全く無い。太陽、月、地球、空といったシンプルな題材を使う。それこそが俺にとってのセオドア・レトキなんだ。「遠い野原(The Far Field)」は長編の詩だが、そこで彼が説明するものは本当に豊かで、言葉がみずみずしい。彼の最後の作品は彼の死後、発表されたんだが、俺は今でもその本を持ち歩いている。何度も読み返して空想にふけった。本の内容も素晴らしいが、タイトルの「The Far Field」という概念も素晴らしい。ちょうどたどり着けないくらい離れた野原。もしくは、遠くまで見えない場所。丘を越えたところ。地上線の彼方。

——Future Islandsとして、またラッパーのHemlock Ernstとしての今後のプランを教えてください。Samは2つの活動をどのように分けているのでしょうか?

S: Future Islandsはしばらく休むよ。俺たちは2月からずっとツアーをしてきて、東京で君たちと会ってツアーを終える。年内はそれが最後で、4ヶ月くらいツアーを休む。冬休みは家族や愛する人たちと一緒に過ごすことができる。ツアーを再開する前に作曲もする予定だ。日本には何年も前から行きたかったから、今年の最後を飾るのが日本で本当に嬉しいよ。だけど日本での公演が140回目とかになるから、俺たちの声も体も心も相当ボロボロだよ(笑)。俺はツアー中でもヒップホップのリリックを書いたりしている。自分にとっては良い捌け口なんだ。その時は別のエゴを使って、脳の別の部分を使っている。Future Islandsでは個人的な経験をベースに、普遍的な真実について歌っているが、Hemlockの時はすごく個人的なことを書いている。Future Islandsは俺たち3人を反映している音楽だから、触れない内容や題材もある。Hemlockとして書いている時は、誰にも気兼ねすることなく書ける。例えば、Gerritの家族に不快な思いをさせるような曲はFuture Islandsでは書きたくない(笑)。たとえ書いたとしても、メタファーで覆い隠してそれが分からないようにする。Future Islandsでは絶対に「Fuck」とは言わないけど、Hemlockだったら必要があれば言う。別の表現方法なんだ。自分を掘り下げて、普段Future Islandsでは触れないような政治的な意見も提示する。俺たちは音楽を介して政治的スタンスを取らないようにしている。音楽は人々の感情のためにあると思うから。自分を愛し、周りの人たちに心を開いて愛することができれば、政治は崩壊すると思う。政治は俺たちの生活の大きな一部になっていて、今アメリカで起こっている問題は、他人に対する嫌悪が強まっていることが根元となっている。他人を理解しようとしないし、お互いを理解したいと思っていない。だからお互いを恐れ、その恐れが他者グループや自分と違う人たちに対する敵意や怒りへと発展する。自分と同じ人たちでも他者とのやりとりを面倒がって歩み寄ろうとしない。Future Islandsの願いは、人々が自分に正直になって、同じ仲間として他の人間に思いやりの心を持つということだ。

——日本でのライブはどんな編成になりますか? 初来日にかける意気込みや、楽しみにしていることを教えてください。

S:日本が楽しみすぎて、眠れないと思うよ(笑)!

W:Gerritがドラムマシーンとキーボード、俺がベース、Mikeがライブのドラムを担当し、Samはステージの端から端まで猛ダッシュして、ライブの終盤にはSamのシャツは汗でぐっしょり濡れているだろうね。東京と日本に行くのはすごく楽しみだよ。クリスマスプレゼントをたくさん買って帰りたいな。プレゼントでお勧めがあったら教えて。

S:俺は食事が楽しみ! 俺たちが東京に着いたら多分脳みそが弾ける、ってみんなから言われてるんだ(笑)。食べ物は何でも美味しいって聞くし、本当に楽しみだよ。




FUTURE ISLANDS

2017年12月19日(火)
渋谷WWW X
GUEST ACT: DUSTIN WONG & TAKAKO MINEKAWA
OPEN 18:30
START 19:30

スタンディング 前売り:¥6,300
お問い合わせ:SMASH(03-3444-6751)

※サイン会も決定!!
開催日時:2017年12月18日(月) 20:00〜
場所:渋谷店5F イベント・スペース
出演:フューチャー・アイランズ
詳細:http://tower.jp/store/event/2017/12/003078
問い合わせ:03-3496-3661

Posted by Monchicon
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