photos by Masanori Naruse

代官山Unitの地下室にギュウギュウ詰めという環境で固唾を飲んで見守る観客。そんな中、延々と投射される特定の意味を成さない音と映像の連続体。徹底的に「無」だけれども何故か妙な感動を覚える光景だった。




オープニング・アクトをつとめたメガネの青年pattenのパフォーマンスは、アルバムから予期していたものよりもよりずっと肉体的なものだった。芯の太いビートを下地に、時にギター、時にヴォーカルを用いながらWarp時代のSeefeelを思わせる呪術性を帯びたミニマル・アブストラクトなサウンドを放出。ノイズ・コラージュやブレイクの入る曲では、ビートがズタズタに引き裂かれる瞬間もあったが、しかしそれはあくまで(クラブ・イヴェントが頻繁に開催される)代官山Unitという場所、そしてダンス・ミュージックの文脈の中で鳴らされていたように思う。





……と感じてしまったのも続くメイン・アクトOPNの提示した音がそこからだいぶ外れたものだったからだ。それも遠く離れた場所にポツンと。中央にスクリーン、上手にDaniel Lopatin、下手にVJ担当のNate Boyce(おそらく)が立ち、それぞれがほぼ動かず淡々と音と映像を投射していく。ぱっと見はなにやら美術館でのインスタレーションのよう。かなり大胆に変調されたWarpからの最新作『R Plus 7』のトラックを軸に、一曲ずつ、寡黙に客に提示していく。





ダンス・ミュージックを形成する打音の反復はもちろんのこと、ギターや肉声などフィジカルな要素は見当たらない。つまりUnit的文脈はほぼ皆無。さらに『R + 7』で開花させたポップ性や、『Replica』におけるほのかなユーモアといった要素も周到にオミット。その代わりドローンや物音系ノイズ、残響、無音(間)を随所に盛り込み、鋭く研ぎ澄まされた立体的な音響が、文脈や意味性が芽生える気配の芽を律儀に摘みとっていた。





そして、そうした(クラシック、アンビエント、ニューエイジ、ゲーム・ミュージック、ノイズ、ポップスのいずれかのようでいて、結局はどこにも属さない)音の塊は、Nateが操る無機質かつ有機質な器具……家具のようでいて家具ではない、身体の一部のようでいてそうではない奇怪なオブジェ……の数々がヌルヌルと蠢く映像と見事に共鳴し、ライヴでもパフォーマンスでもインスタレーションでもない何かへと帰結していた。





それはいわば『R Plus Seven』をデータ化して機械に読み込ませ、3Dプリンタを用いてその「レプリカ」を製造しているかのようだった。もちろんロードさせたデータの中に様々なノイズが意図的に混じっているために現物とは全く異なる不可思議なデザインが出来上がってくるのだが。かつてサティが音楽の家具化を試みていたけれど、ひょっとしたらロパティンはそのまま音を家具として立体化させようとしていたのかもしれない。





アンコール含めほぼジャスト1時間に渡って淡々と並べられていった奇妙な音のオブジェたち。ぼんやりと眺めていればただ無意味に流れてしまいそうだが、しかし人々が密集した息苦しい薄暗い空間の中で見えたそれはわけのわからない感動を携えて迫ってきた。

この感動の源は何だったのだろう。ドローンの奥に潜むB級サスペンス・ホラー的なドラマ性や情緒感、そしてうっすらと漂う病的なギーク性や贋作感がこの人の核を形成していることは確かだが、その奥底にあるひどくベタな感覚にこちらもベタに共鳴してしまったせいだろうか。逆にいえば、それらを起点としつつも、安住することをよしとせず、異なる文脈や人脈をひたすらかけ合わせて越境的な「異物」を作りだそうとするからこそ、OPN(及び彼のレーベルSoftware)という存在は(音楽は勿論のこと)様々な文脈をヌルヌルと繋げるハブやプラットフォームとして抜群に面白いし、それ故に日本の都市という見知らぬ人々が狭い部屋の中で密着し、弧と個の塊が蠢きあうわけのわからない異空間にもすっと溶け込めたのではないか。





そういえば最近新作『Atlas』を発表したUS産サバーバン・ギターポップの雄、Real Estateの前作『Days』にはLopatinがシンセで1曲参加していた(大学でギタリストのDucktailsと知り合ったらしい)。彼らは最新作で故郷ニュージャージーの郊外に古くからある壁画をジャケットに掲げてみせた。そうしたアートワークに象徴されるように、Real Estateは古き良き郊外の風景(スーパーに掲げられた抽象画)をポップ・ソングとして居心地のいい表現へとトランスフォームさせる。一方で、ロパティンはそうした風景を「居心地の悪い」何か(“Ethereal Estate”とでも呼ぶべきもの?)へと抽象化させてみせる。

前者がノスタルジーをその周りにある文脈と絡ませて叙情的な「ものがたり」として描くのに対し、ほぼ同じ世代の後者は絵画そのものを文脈から一旦引き剥がし、別の素材とごちゃごちゃに混ぜ、最早絵でも語りでもなくなった「もの」を展示してみせる。思い出のノイジーな立体化。アウトプットこそ酷く異なるが、核となる素材は実は同じ原風景。見たことのない奇妙な彫刻と実家にある古ぼけた家具の造形が一瞬重なって見える瞬間。そこにこのわけのわからない音が胸に迫ってきたことの原理がある気がするのだ。





『R Plus 7』でLopatinが「メロディ」に対して真摯なアプローチを見せたのは、実は少年時代のフュージョンの持つテクニカルなプレイの奥に潜む旋律の美しさに脳裏を刺激された結果なのかも、と薄暗い空間に佇みながらふと思った。そしておそらく、あの代官山の地下に佇んでいた我々観客は、Lopatinが少年期を過ごしたボストンの実家の地下室へと知らないうちに案内され、そこに置いてある記憶の原風景の数々(父親所有のJuno 60やフュージョンのカセット、ビデオゲーム等々)が何か別の物質へとぐにゃぐにゃと変形していく様を目撃していたのかもしれない。